繁盛店づくりのプロフェッショナル

橋本夕紀夫が考察する商空間デザインのカタチ

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橋本夕紀夫が考察する 商空間デザインのカタチ

「ザ・ペニンシュラ東京」「橙家」「炭火焼肉トラジ」などを手掛け、世界にその名を馳せる橋本夕紀夫氏。数多くの作品を生み出してきた橋本氏ならではのデザインの流儀と美学、そしてこれからの商空間デザインに求められることは何か、その独自のマインドに迫る。

 

PROFILE
1962年生まれ、愛知県出身。愛知県立芸術大学デザイン学科卒業。スーパーポテトを経て独立。1996年橋本夕紀夫デザインスタジオ設立。JCD奨励賞、JCD優秀賞など多数の受賞歴をもつ。東京工芸大学教授。

全ての店舗を老舗にしたい。
伝統と革新を融合させたデザインで
建築と同じように、何十年も残る店をつくる

デザイナー人生に影響を与えた
最先端の現場で培った経験

2000年代後半、外資系高級ホテルが開業ラッシュを迎える中、ひと際大きな注目を集めた「ザ・ペニンシュラ東京」の日本上陸。名門ペニンシュラが、世界で8番目にオープンするホテルのデザイナーとして白羽の矢を立てたのが、橋本夕紀夫氏だった。コンセプトは西洋的なホテルという空間に日本文化を融合させること。ロビーの壁に広がる京都の千本格子、西陣織のソファなど、伝統技術を新しい形に昇華させたモダンな空間が、訪れる人々を魅了。迫力の中に静寂さを感じる趣のあるデザインで、その地位を不動のものにした。

世界的デザイナー・橋本夕紀夫氏の今日を語る上で欠かせない人物が2人いる。国際的な評価を受けたデザイナー・故倉俣史朗氏と傑出したデザイナー集団スーパーポテトの代表・杉本貴志氏だ。大学卒業後、何のつてもなく愛知から上京した橋本氏が最初にコンタクトを取ったのが倉俣氏だった。「この頃、インテリアデザイナーの頂点といったら倉俣さんか杉本さん。当たって砕けろと、まず倉俣さんの事務所を電話帳で調べて電話をしたところ、会ってくださると。どこの馬の骨か分からない学生を相手に、いろいろな話をしてくれ、短期間でしたがバイトする機会に恵まれました」。倉俣氏のもとで体験したのは、最先端のデザインの現場。LEDが一般的でなかった時代において、発光ダイオードを使った光るテーブルの製作作業に参加した。「デザインとは、何かしら最先端のものを取り込んでいくことを体感しました」。その後、「バー・ラジオ」「無印良品」を手掛けたスーパーポテトの門を叩く。猫の手も借りたいほどの忙しさにあった事務所になんとなく潜り込めたものの、体育会系で徹夜の連続。体を使ったデザインを徹底的に叩き込まれた。がむしゃらに働く中、アイデアが浮かばない不安も抱えていた。デザイナーとして身を立てる自信がなくなりかけていたある日、赤坂の「春秋」を担当。この経験がきっかけで、人生のターニングポイントを迎えた。「最高級の店をつくる」という杉本氏の志気により、橋本氏は日本全国を飛び回った。器にこだわり、著名な陶芸家に交渉した日もあれば、飛騨高山まで古材をもらいに出掛け、河川敷で石も拾った。左官や宮大工など腕利きの職人にも会いに行った。そして橋本氏は気付いた。「デザイナーっていうのは、ゼロからつくるのではなく、いろいろな人と出会う中で発見、体験することを自分なりに解釈すればいいのだと体感的に分かった。デザインは自分で考えなくてもいいと思ったら、すごく楽になりました」。そのため、人も物も自分で探すことを主義とする。「インテリアでも建築でも、材料は大手メーカーの品番から選ぶことが多い。しかし、それ以外に面白いものが世の中にはたくさんある。それはやはり自分で求めていかないと見つからない」。職人とのコミュニケーションから生まれるアイデアを形にするのが橋本氏の本領。それを形成したスーパーポテトでの10年を、「あの時の経験がなかったら、今の自分は存在しない」と振り返る。

商業とは物を売るだけでなく
ひとつの文化をつくる役割をもつ

日本が最も輝いていた80年代。クリエーター、デザイナーという存在が急速にクローズアップされた時期でもあった。「バブル期は、いろいろなものがつくっては壊されましたが、そういう時期だからこそクリエーターが注目された。それまでの日本は、車のデザイン、家電のデザインに関してはデザイナーの作品というより、企業の中でつくられたプロダクトの一つという位置付けでした」。ただ物を売るという意識から文化的なエッセンスが組み込まれることで、クリエーターの活躍に注目が集まったという。「例えば、百貨店の西武がセゾン美術館をつくり、サントリーはテレビCMやグラフィックの世界で台頭し、クリエーションに力を注いだ。商業とは物を売るだけでなく、一つの文化をつくる役割もあるという風潮に変わった」。そしてバブルが崩壊した90年代。時代は消費社会から一転、エコや環境問題が取り沙汰される中、創作料理という新たなジャンルが生まれた。その先駆け的な存在である「橙家」を独立して間もない橋本氏が手掛けた。「和食なら数寄屋造りや古民家風といった形で表現できるが、創作料理はデザインによりどころがない。和食がベースだけれども、テーマが絞られていない分、自分の興味のあることだけでつくっていきました。あえて自然素材でなく工業材料を使ったり、店内のグラフィックにはイギリスのデジタルクリエーター集団に依頼したり、当時、最も新しいと思える創作を全て取り込みました」。リサーチも兼ねてイギリスに渡った橋本氏。現地のレストランで目にしたのは、遊び心溢れるアーティスティックな空間だった。「これまで体験したことのないような、アート的な感覚に刺激を受けました」。そこで橋本氏は、これまで培ってきた、ある種の緊張感が漂う店づくりの手法に、クールな遊び心の感覚をミックスさせて「橙家」をデザイン。定番化された和食のスタイルを打ち破る、自由な表現のレストランは大ヒット。レストランデザインの新しい形として、飲食業界に大きな影響を与えた。

2000年に入ると、創作料理系の勢いは落ち着き、専門店へと流れが変わった。橋本氏は焼肉チェーン店「トラジ」の内装も手掛ける。新店オープンの準備をしていたある日、外食産業に打撃を与えた狂牛病騒動に見舞われた。「焼肉店がどんどん潰れる中、『トラジ』は予定通り新店をオープンさせました。ほとんどの店舗を閉めることなく、踏ん張った。売上が下がっても、それ以上に接客の向上を含め食の安全を確保する努力をし、その姿勢が結果的に今の業績につながっている。ペニンシュラも同じ。香港でSARSが猛威を振るった際、観光客がいなくなったが、人材を大切にし、スタッフを減らさなかった。つまり、苦しい状況に直面しても瞬間的な判断ではなく、責任をもって乗り越える手段を考えることが大切だと感じました。とにかく真面目が一番。21世紀に入って、さらに強く思うようになりましたね」

今後、デザイナーに求められるのは
真の意味での社会貢献

開業・廃業のサイクルが激しい日本の飲食店。3年以内の廃業率は約7割といわれている。そんな厳しい業界において「自分がデザインした全ての店を老舗にしたい」と言う。「消費されるものではなく、時間が経つほどに味わいが増すものをつくりたい。1回つくったものは、20年、30年と建築と同じように残り続けてほしい」。そのためには、新しさと普遍性の両方が必要だと指摘。「長い歴史の中で構築された伝統スタイルを取り入れただけではつまらないし、我々がつくる意味がない。『雑草家』という韓国料理店は、最初から風化した素材でつくったので、歳月がたった今でも古さを全く感じさせない。『ザ・ペニンシュラ東京』も、左官塗りや漆を使いながら、表現としては新しいデザインにしました。ゼロからつくるのではなく、誰もが知っている素材を利用して安心感を与えながら、誰もしていない料理の仕方を心掛けています」

伝統と革新の融合に挑戦し続ける橋本氏は、日本の伝統文化の楽しさを伝える“ハイパージャパニーズスタイル”を提唱している。「海外で日本文化を紹介するとき、侘や寂など、高尚なところ
から説明するから分かりづらくなる。祭りや縁日など、エンターテインメント的な側面から日本の楽しさを伝えたい。雅の世界では色をたくさん使うし、派手なことが好き。漫才や落語も日本独特。やはり、人間の感覚で最上位にあるのは“笑い”です。日々過ごす中で笑いは不可欠です。笑いは難しい世界ですが、デザインにおける一つの表現の手段にしたい」と説明する。「笑いとは、ある種の刺激から起きるもので、空間デザインにおいても訪れる人に、刺激を与える存在でありたい。居心地がいいというのも刺激だし、逆に使いづらいのも刺激。色あせず、一つの環境として刺激を与え続けられるものが、結果的に魅力のある店舗として残っていくと考えています」

さらに、これからの時代のデザインに求められる要素について「真の意味での社会貢献」と断言する橋本氏。「笑顔の絶えない楽しい社会環境をつくるためには商業施設は重要。何でもない普通の街に小さくても素敵な店ができると街が変わり、地域社会に与える影響は大きい。街が活性化されると、人とのコミュニケーションが生まれ、いい子供が育つ。保育園と合体させた商業施設では、地域の大人と子供たちが触れ合え、パンづくりのイベントなど行っています。今まで相いれなかった空間を組み合わせることで、新しい何かを生み出していきたい。我々が気付いていない面白いアプローチは、まだいっぱいありますからね」

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